いざ彼の演奏が始まると、どうだろう。

最初のフレーズから聴衆の耳と心をわしづかみにしていた。

バッハ、モーツァルト、ヘンデルなどポピュラーな曲を中心に並べられた編成は、知られた曲だけに耳の肥えた聴衆をうならせるのは難しいものがある。

しかし、彼の演奏は正統派で、正面切って堂々と作曲家の理想に挑戦するものだった。

まだ解釈は研究の余地がありそうなところもあったが、気に障るほどのものはなく、若い演奏家らしく初々しく魅力的で、心地よく最後まで酔わせてくれるものだった。

だから、始まりの時のおざなりな拍手と違って、最後の曲が終わった時には熱心な、そしてこれで夢見心地だった時間を惜しむ盛大な拍手が贈られる事になったのは当然だったろう。

鳴りやまない拍手に応えて、ユウキは二曲をアンコール演奏してコンサートを終了させた。

席を離れていく客たちは一様に感激と満足を表情に浮かべ、演奏者の名前を改めて確認し、次のコンサートが開かれる時にはまた来ようと言いあっていた。

僕は他の客たちが次々に席を立っていく中、なかなか立ち上がれずにいた。

ケイが言っていた事は真実だったのだ。

演奏を聴いた後ならあの言葉の意味が分かる。彼の魅力はバイオリニストであることを加えなければ本当のところは分からない。

演奏家としての彼は、その演奏している時の颯爽とした姿を含めて、実に美しかった。

しかしなぜこれほどのバイオリニストが、もっと前から世に知られずにいたのだろう?

僕はようやく立ち上がると、ユウキに会うために楽屋待ちの列に並んだ。

サインを求めようとする者たちの列は長くなかなか先に進まなかったが、ようやく先が見えてきたところでポンと肩をたたかれた。振り向くとそこにはケイが立っていた。

「どうぞこちらへ」

どうやら優先的に楽屋へと入れてくれるつもりらしい。ずいぶんと寛大なことだが。

「悠季の演奏はいかがでしたか?」

見慣れたポーカーフェイスだったが、彼の眼の奥には自分のパートナーへの誇らしさが垣間見えた。

僕は素直に自分の見識の無さを白状することにした。

「完敗だよ。確かに君の言う通り、彼の演奏を聴かなければ魅力のすべては分からないだろうね。・・・・・すばらしい演奏だった」

「それはよかったです。悠季に会われますか?」

「・・・・・いいのか?てっきり彼と会うのを拒絶するだろうと思っていたが」

「プライベートの時でしたら絶対に会わせたりなどしませんよ。しかしここは演奏会場です。悠季のファンの一人として来られた方なのですから、僕の一存で断るわけにはいきませんし、悠季も断りはしないでしょう。

それに・・・・・あなたを断ったところで邪魔者は他にもいますのでね」

謎を含んだことを言い、苦笑しながらケイは楽屋のドアを開けてくれた。

中に入ると数人の客が立っていて、ユウキが並んでいる客たちにサインするのが終わるのを待っている様子だった。

見覚えのある者たち。あれは確かケイの昔の友人たち・・・・・ウィーンに住んでいるという悪友たちではなかったか。

何かの折に彼等と知り合って、パーティーなどで顔を合わせた時には挨拶くらいはしていた間柄だ。

彼等も僕の事がわかったらしく、うなずいて挨拶してくれた。

だが、なぜここに彼等がいるのだろう?ケイとの関係が復活したとも思えない。

不思議に思った僕がケイに小声で尋ねてみると、ケイの苦笑は更に深くなった。

「彼等が僕のコンサートに来る事はありませんよ。彼等がやって来るのはいつも悠季のコンサートの時だけです」

客が途切れると、彼等はユウキのそばにやってきて、楽しそうに何やらしゃべり始めていた。まるで彼を口説いているかのように。

ケイはさっと彼の傍に行くと、僕がコンサートを聴きに来ていたことを報せてくれた。ユウキが僕のそばへとやって来ると、柔らかなはにかみ笑みを浮かべて握手を求めてきた。

自分でも今日の演奏はよかったと思っているのだろう。演奏後の興奮が頬を染め黒い瞳をきらきらと輝かせていて、見惚れた。

「コンサートに来て下さってありがとうございます。この間は大変お世話になってしまったようで、申し訳ありませんでした。きちんとお礼も言えず大変失礼しました」

彼が善良であたたかな性格をしているのだろうと分かる態度だった。

この彼のことを、愛想笑いをふりまく薄っぺらい人間だとどうして思いこんだものか。

「ユウキ。この後一緒に食事に行かないか?」

僕たちの会話に割り込んできたのは、隣りでじれている様子のウィーン在住の中の一人。

「この辺りの名物料理を紹介するよ。きっと口にあうと思う」

口々に言う彼等に、ユウキはにこやかに応対し平等に扱っていた。どうやらこんなふうに何人もの求愛者と付き合うことも初めてではないらしい。

「彼等は、一応悠季のファンクラブであると自称していますが、実際のところは僕と悠季がいるところに割り込むのを無上の喜びとしてやって来るというところでしょうね」

ケイがそう言うと、彼等は皆苦笑していた。

なるほど、トラブルを巻き起こして楽しんでいるというところか。

僕も誘われたので、そのまま夜の街へと繰り出す事になった。

ユウキはホテルにバイオリンを預けてから合流するということでケイがつき添って行き、僕たちは一足先にレストランへとおもむく事になった。

待つ間にウィーンの彼等と内心の疑問を聞き出す機会を得た。

僕は彼等がケイに未練があってユウキのコンサートにやってくるのではないかと考えていたが、どうやらそうではないらしい。

いや、多少の未練は残っているのかもしれなかったが。

「ユウキの演奏はすばらしいからね。まだ新人で演奏の機会は少ないが、これからどんどん客演のチャンスも増えていくだろうし、楽しみだよ」

「演奏は聞くたびに進化していくのが分かる。毎回新鮮だ」

「そうそう。それにユウキのコンサートに行けば必ず面白いものを見られるしねぇ。たまらないんだよ。我々を排除しようと必死になってあれこれ策を弄そうとしているケイをね!」

「ポーカーフェイスでユウキの周りを警戒している様子は、まるで威嚇をしている雄鶏のようで、見ていて実に面白いのさ。例えば・・・・・」

コンサートツアー最中の面白いエピソードを色々と話してくれた。

「そんなふうに彼等の仲を邪魔していたら、我々をここに置き去りにしてよそへと逃げ出してしまうこともありそうだが、心配していないのか?」

彼等はそんな心配などまったくしていない様子だったのだ。

「ああ、そんな心配はまったくないよ。ケイ一人ならあり得るけど、ユウキが一緒だからね。彼は生真面目で誠実な性格だから、人との約束を違えるような事は絶対にしないんだ。ケイが逃げ出そうと誘っても、ちゃんとここに戻ってくるさ」

「ケイの言う事ならなんでも聞いてついていきそうな、おとなしくて素直な人物に見えていたが」

意外に思えて僕が口をはさむと、皆口々に否定した。

「いやいや、彼は自分の意見をしっかりと持っているからね。ああ見えて実に頑固で、こうと思った事は絶対に曲げない強さもある。あのケイがてこずっているほどだからね」

「欧州に留学中のケイは、こうと決めたら自分の行くべき道は絶対に曲げない男だったのにずいぶん変わったものだ」

「今はしっかり尻に敷かれているよ」




そうこうしているうちに、僕たちを置き去りにすることなく日本の二人が合流してきた。

二人が入ると座は更に盛り上がった。ユウキとケイの演奏活動についてや、二人が日本で参加しているというアマチュアオーケストラの話を聞けたのが面白かった。

ケイは二人きりなれなかったことにかなり不満そうな様子だったが、にぎやかに食事をしている間に二人の仲を見せ付ける方を選んだらしく、ユウキにあれこれとかまい、ときどきやりすぎて彼に肘打ちをされているのを見てしまった。

あの冷淡そのものだった、圭がである!

彼らとの時間はとても楽しかったが、ユウキのツアーがまだ続いているという事だったので食事だけで二人とは別れた。

他の連中はそのままバーへと流れ、僕も一緒についていった。

彼らと詳しく話すのはこれが初めてだったが、話題豊富でとても楽しい。

ふと思いついて、僕は彼等に尋ねてみた。

「君たちの話を聞いていると二人一緒のときばかりに会っているようだが、ユウキ一人だけと会った事はないのかい?」

「そんな隙をケイが絶対につくるわけがない!あったらぜひ欲しいがね」

笑いながら、彼―――確かニコル・シュバイツと言ったか―――が断言した。

「あ、それは僕も欲しいな!」

隣りで言ったのは、カール・・・・・?

「ねえ、君はユウキと二人きりになるチャンスでもあったというのかい?」

僕は答えなかったが、表情から何か推測したのか、皆が驚きとうらやましそうな表情をしてみせたのが意外だった。

「そんなに・・・・・意外なことなのかい?」

「圭が陰謀家で策士であることは、君を含めてここにいる誰もが知っている」

ユーグリと言ったか。彼がきっぱりと言い切り、他の者たちも一様にうなずいてみせた。







その後僕はウィーンの連中と一緒に行動することが多くなり、ユウキが演奏ツアーで欧州にきたときにはその後を追うようになっていった。

二人に付いて行くためにあれこれと画策し、うまく一緒に食事や休日を過ごす日々が続いた。

いかにケイを出し抜いてユウキと多く話し、多く過ごせるかを彼等と競う。

時折混じる恋の駆け引きに似たあれこれが楽しかった。

連中はケイとユウキの中に割り込むのが楽しいと言っていたし、確かにケイが僕たちをまいて二人きりになろうとあれこれと画策し奮闘している姿がほほえましく思えた。

しかし彼らもまたユウキの魅力に惹きつけられているからこそこんな風に追いかけているのだという事が分かってきた。

けれどそれは互いに暗黙の了解となっていて、誰も口に出して言わないだけなのだ。

僕もケイという極上の情人と過ごした時間にも増して、愛らしいユウキと会える時間が楽しみだった。

今時珍しいほどの生真面目さと少年のような素直さに、話していてほっと和む。

からかうとすぐに赤くなる、少年のような初々しさやはにかんだ笑みが愛らしい。

そして、普段はまったくケイと夜の気配など見せないのに、ふとした瞬間に垣間見せる色香に触れて目を離せなくなっていった。

――― ケイよりも早く、彼と出会う事が出来ていたら! 

切実に、そう思ったりもする。

しかし実際にケイを排除してユウキを僕の方へと振り向かせようとすることは出来なかった。

ケイとユウキの二人を見ていると、なにげない瞬間に実に愛情のこもった視線を交わし合っているのを目にする。

親しくしているらしいウィーンの連中や僕に向けてくる、友人へ向けた親しみを込めた視線とは違う。

ケイを信頼し深く愛し合っていることがよくわかる甘い笑みを浮かべてケイの方を向く。

まるで声に出したかのように、ケイが応えて彼に笑顔を返す。

昔はいつもポーカーフェィスしか見せなかったケイが実に穏やかであたたかな微笑みを返し、まなざしで愛を語り合う。

普段カップルのこんな場面に出会ったら、僕は肩をすくめてそっぽを向いたことだろうが、彼等の様子はごく自然で、見ていてとても美しくそして妬ましいものだった。

そんな姿を壊すことは惜しくて、出来なかった。

彼等の仲に波風を立てる事は、美しいものを愛でて生きてきた僕のルールが許さなかった。

ゆえにユウキを我がものにしようとすることが出来なかったのだ!

僕に与えられた機会は、ほんの少しの時間、ユウキという小鳥が手元でいてくれたということ。

それだけでも稀有な幸運だったのだと自分に言い聞かせ、諦めることしかできなかった。







そして僕は赤い寝椅子を見るたびに、彼を恋しく思い出し、深い深いため息をこぼし続けているのだ。